アンビリあらすじ

CAN〜やればできる〜
今から4年前の2003年、アメリマサチューセッツ州で行なわれた市民マラソンでのこと、62歳のランナーがレース直後に突然倒れた、、マラソン歴26年のディック・ホイト。
彼の肉体は62歳とは思えないほど鍛えぬかれていたが、心臓の近くにある動脈の一部が血栓によって95%も塞がっていた、、彼が走り続けてきた理由、それは息子との絆だった。。

1961年ディックはジュディと結婚、翌年には息子(リック)が生まれる、しかしリックは脳性小児マヒだった。



医師からは施設への入所をすすめられるが、ディックとジュディは拒否。四肢が動かない、声が出ないため知的障害の有無も、意識があるのかもわからないリックに両親は話しかけ続けた、、



そのうちにリックが意識がある、耳が聞こえる事が判明した、、そして成長するにつれ喜怒哀楽を表現できるようになったリック、、



両親は毎日言葉を教え、リックは『YES』・『NO』が頭の動きによって伝えられるようになった。



そのころある大学の研究を知る、それは頭の動きにより文字を入力、表現できるというものだった、



両親はこの研究に5000ドルを寄付し、リックが11歳になった頃、試作品が完成、コミュニケーションをはかる事に・・



しかし、リックは学校にも通えず、言葉を発せないために言葉を理解しているかが未知数であった。



リックが最初に入力した文章・・それは『Go Bruins』*1、、ディックの口癖をまねたリックのユーモアであった。



言葉を得たリックは猛勉強の末、高校に入学する、



それからしばらくして、交通事故により全身マヒとなった地元大学のラクロス選手のためのチャリティーラソンが開催されることになり、リックは参加したいと言い出す。



自力で車椅子を動かせないリック、ディックが選択した方法は車椅子を押しながら走るという過酷なものであった。早速ディックはトレーニングを開始、そして無事完走、、リックの『走っているときは障害者だということを忘れていた』という言葉でフルマラソンに出ることを決意、、合言葉はCAN。



それからディックは2年かけて車椅子を軽量化、数々のハーフマラソンで実力をつける、、一方のリックも父のがんばりに影響されてボストン大学に入学。。



1981年には念願のボストンマラソンに出場しようとするが、自力で走れないリックは車椅子の部にエントリーする事ができなかった、、ディックの必死の訴えで出走こそ認められたものの、正式な出場者とは認定されず、ただ同じコースを走る事ができるというものであった。



その2年後、ありえないことが起こる、、



40を越えたディックが車椅子を押しながらフルマラソンで2時間45分を記録、、これによりボストンマラソンの一般者部門にエントリーできるようになったのだ。



親子は切磋琢磨し、リックはボストン大学を卒業、、ディックは自己ベスト2時間40分をマークする。



そんななか、ディックにトライアスロンの招待選手としてのオファーが舞い込む、、が、招待されたのはディックのみであった、、



そのオファーを『息子のためにレースをはじめた』と言い張りディックは断ってしまう*2。。



しかしリックは出場したいといいだす、、合言葉はCAN



大会側の、安全にディックを運べるなら・・という条件をクリアし、5年のトレーニングを経てトライアストンに参加、



ハワイ・アイアンマンレースを完走する*3。。



こうして900以上のレースに出場し62歳になったディックは、とあるマラソンのゴール直後に倒れてしまう、、



診断の結果は心筋梗塞、、



幸い、処置が早かったため大事には至らなかったが、医師からは『心臓を鍛えていなかったら50を待たずに死んでいた』と告げられる、、



リックのおかげで自分は生きている、、ディックはそう感じ、親子の絆はさらに強くなるのであった、、



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ディックは定年退職し、リックは大学の研究所で障害者用補助器具の開発をする、、親子は今も走り続けている。。。



ある年の父の日にリックが贈った言葉、、



『The thing I'd most like is that my dad sit in the chair and I push him once』



『Everything is possible』



『CAN』



あらすじはこんな感じ、いい話なんだけどどうも文章力が追いついてなくって泣けないですね、、

*1:地元のアイスホッケーチーム

*2:あと、カナヅチだったらしい

*3:40㎏のリックと機材で69㎏のハンデがあった